2012年1月21日

「手」でつくったかたち 柳宗理

今朝amazonから届いた「CasaBRUTUS特別編集 新装版 柳宗理」を

風邪引いたからベッドで鼻水出しながら読んでいたら、

途中から熱いモノが胸の奥から湧き上がって

涙が出てきた。



こんなに一生懸命、何度も「手で」試作されて

見知らぬ人の「手に」なじむように作られていたからこそ

彼のプロダクトを手にするときに

ほっとするんだとわかって、泣けた。



スプーンや、やかんの持ち手や、フライパンの柄を通して

私は柳宗理と毎日握手をしているような感覚になった。

ステンレスなのに、あたたかい。

鉄なのにやさしい。



彼は昨年の12月25日に亡くなったが、

私はこれからも、彼のプロダクトを使う度に

彼の笑顔や、仕事に対する情熱を思いだせる。



すごい仕事だと、あらためて思ったので記しておく。



2012年1月1日

震災と事故で大きく暮らしを変えた2011年

今年は、初秋に、家族になって初めての引越しをしました。
3.11の震災が主な理由です。


地震を都内で体感し、阪神大震災の記憶が蘇って
会社のビルに入れなくなった3月。


そこから約一ヶ月半、実家がある兵庫県に家族全員で移動し、
ネット越しに一人で完結できる仕事だけをさせてもらって過ごした。


5月に首都圏に戻ってからは、東電の原発が排出した放射性物質への警戒と、地震への恐れをいかに小さなモノにするかに取り組んだ。

放射性物質については、自分たちでも過剰と思う対応をすることに決めて実行。食品は、子どもには検査済みの食品をお金を惜しまずに食べさせた。そして、なるべく砂ほこりが起こる場所では子どもを遊ばせないことにした。(これは当初徹底できていなかった。後で気がついて実行した)

地震への恐れの方は、結構しんどかった。。。なぜ怖いのかを分解するのが大変で。でも要するに怖いのは死にたくないからで、死にたくないのは、家族を守れなくなるから、ということがボトルネックだった。当たり前と言えば当たり前だけど。自分一人だったら、結構どうでも良かったと思う。

その後にやったのは、現状残せる資金を整理し直すこと。それから、この事態が原発の再爆発といった最悪の局面を迎えた時に、これから自分がどこでどうやって幾ら稼ぐことができるのかを考えた。自分のスキルを切実に棚卸し出来たのは良い機会だったと思う。その後の仕事で何を大事にして働くかを整理できた。


そうして不安定な心境を抱えながら、夏を迎えて、休みを利用して引越し先を決め、9月に移住。私は単身赴任することになった。


それから3ヶ月。妻には普段の倍以上に大変な環境で子育てをしてもらい、私はこれまでの倍は集中して、今の仕事に取り組み、業績面と、自分の成長とを必死に追いかけて過ごしてきた。


妻のおかげで子どもたちはスクスク育っている。
双方の両親にも、友人たちにも本当に助けてもらってる。
私の業績は、チームメンバーのおかげで期待以上の結果を出せた。
皆に支えられて、新しい生活が始められました。
心から感謝です。


2012年も、当分はこのペースで行く。
家族にとって、とても厳しい環境なことを自覚しつつ
皆で協力して取り組んで行きたい。


新しい道はきっと開けると信じて。